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■今年の初夢は『和魂洋才』の再構築

       
2009年1月9日    この年末・年始は、よくテレビを見た。10年以上も前に買った、左右の画面から画像のはみ出した我が家のテレビはとうとう寿命が尽き、まったく映らなくなった。これを機会に、テレビの無い生活に挑戦してはみたものの、2週間で根を上げ新しいテレビを購入した。そういえば、昨年は洗濯機も突然と無口になり、1週間の手洗い期間を経て購入している。「根性」という言葉とはおよそ無縁なのが我が家である。その新品の液晶薄型テレビは、日比谷公園の「派遣労働者村」の様子を連日報道していた。これについて著名な学者や評論家が色々と解説を加えていたが、今ひとつ自分として納得できる話は聞けなかった。

 アダム・スミスの「国富論」依頼、自由競争と市場原理が世界経済の基調になっており、特に東西冷戦後はグローバル・スタンダード、つまり米国流の金融を中心とした経済が世界経済の主流となっている。自由競争と市場原理の大きな欠点は、弱肉強食の修羅の世に陥ることである。しかし、市場にはそのような悲惨な状態におちいる前に「神の見えざる手」によって、バランスを戻してくれるはず、といった考え方がある。つまり、神という見えない手の存在を前提にして、市場経済は成り立っているのだ。ここでの「神」とはいうまでもなく、キリスト教の神である。そう考えると、市場原理というのは経済の論理だけでなく、宗教の目に見えない世界、つまりは「魂の論理」ということになる。そういえば、アメリカは今月からオバマ大統領が就任するが、就任式では神に対して宣誓し、神から権限が委任されることになる。資本主義市場原理も民主主義もキリスト教の神の存在(信頼)を抜きにしては成立しないのだ。
 わが国でも古くは政治を「政(まつりごと)」という。「まつりごと」は「祭りごと」であり、「祭り」は本来、神を楽しませ、鎮めるための儀式である。政治だけでなく「奉納相撲」「神楽」といった文化、芸能、スポーツにいたるまで、神の存在なしに成り立たないのは日本も米国も同じである。我われ人間は、見える世界と見えない世界、この世とあの世というか、現実と非現実という二重構造の中で生きていることを実感しないと、世界経済という現実の世界の真実を理解することはできないのではないだろうか。

 現在に生きる我われは、弱肉強食のビジネスの世界を必死に働いて生きている。競争相手やライバル会社など、他人を容赦なく打ち負かさないと、こちらが市場から退去を余儀なくされる。一瞬でも相手のことを考えて手加減をしたら、それこそ生き残ることはできないのだ。それが現実のビジネスであり、そう思わないと営々とお金儲けのために、汗水たらして働き続けることはできない。しかし、そうは思っても一瞬ふっと、「自分はこれでいいのだろうか」と思うかもしれない。そんなふうに自分を振り返るときに、人間の行動は変わるのではないか。
 人間とは傲慢なものである。放っておくと途方もなく暴走していく。いったん暴走すると、なかなか反省しないし、偉大なものへの畏怖の感情というものを失いがちだ。自然界ではありえない「共食い」をさせた狂牛病問題しかり。環境破壊問題しかりである。そんな人間を暴走させないためのブレーキになるものが、見えない世界の神の言葉ではないだろうか。ここでは「神」という言葉を使っているが、これは特定な宗教や寺や教会などを指しているのではない。目に見える現実の世界のほかに、もうひとつ目に見えない世界がある。そういう意味での神である。
 最近はあまり聞かなくなったが、日本人は昔から「天罰があたる」という言いかたをしてきた。現実の世界では、罪をかさねても罰せらずにすむかもしれない。けれど、人を泣かせ、困らせることをすれば「天はそれを許さない」ということである。現実の世界では罪を免れても、「お天道さまはちゃんと見ているよ」という言いかたをしたわけである。
 このように日本の庶民たちは、見えない世界の力の実在性というものを、いつも自分の背中に感じながら生きてきた。そして、そこにはある種の宗教的感覚、見えない世界への畏敬の念というものがあった。外部には分からないから、サービス残業をやらせても、過労死するほど働かせてもいい、ということにはならなかった。いくらうまく立ちまわって罪を問われなくても、こんなことをしたら天が許さないだろう、という感覚がどこかにあった。こうした見えない世界というのが、人間の暴走にブレーキをかけてきたのである。

 日本人は明治から百数十年のあいだ、ヨーロッパの文化や経済や政治や技術など、あらゆるものを学んできた。そして、欧米をモデルにして自分たちの文化をつくってきた。「和魂洋才」である。日本古来の精神世界(大和魂)を大切にしながら、海外の優れた技術や文化など(洋才)、見習うべき良い点は受け入れ、両者を調和させ発展させてきたのである。
 今日の民主主義や市場原理についても、日本人は社会、経済のシステムとしてしか考えていない。欧米人のようにその背後にキリスト教の神の存在(意志)があるとは考えてはいないのだ。経済大国といわれるようになっても、精神世界は「八百万の神」の精霊信仰(アニミズム)であり、また神棚と仏壇が一軒の家の中に同居している神仏習合である。しかも、神道と仏教だけでなく、そこにキリスト教も混じってくる、道教、儒教も入ってくる混淆主義(シンクレティズム)なのだ。
 米国の企業経営者がレイオフ(利益が確保できない、事業からの撤退など、会社都合による人員削減)をやるとき、信念や自信をもってやれるのはなぜか。それは、失業手当などの社会保障が整備されていることもあるが、それ以上にレイオフすることが神の正義だと信じているからである。しかし、日本企業が人員整理する場合は、運命共同体としての人間社会の正義が問われる。
 仏教では「仏・法・僧」という言葉がある。「仏」はほとけであり、「法」は真理、仏の教えのことである。「僧」は同じ信仰をともにする仲間であり、この三つのことを「三宝」といって、これを大切にするようにといわれている。同じように企業にも「目的」があり、「経営」があり、経営をともにするグループ、仲間がいる。仏教の三宝の教えと同様に、経営の共同体を大切にしなさい、それを破壊したり乱すようなことはしないようにと、組織のメンバーは求められてきた。
 組織に所属し、メンバーそれぞれが役割を分担して経営を行ない、企業の目的を達成し、利益の一端を分かちあう。そして、労使の間には、「雇用保障は企業経営者の責任である」と信じられてきた。企業の都合で一方的に社員を解雇することは、人としての信義に反する、許されない行為と考えられてきたのである。

 明治以来の近代化に切り替えていくなかで、見えない世界は時代遅れ、古い考え方だといって、頭から否定されてきた。それを欧米の物差しではなく、もっと日本的な物差しで、あらためて計ってみる必要があるのではないだろうか。目に見えない言葉の大切さ、現実の日常生活には役立たない言葉の大切さ。こういうものをきちんと理解することが、豊かでいきいきとした人間の生活をつくっていく、そんな気がするのだ。大地に咲く花には、必ず目には見えないが根がある。どんなにきれいであっても、茎と花だけでは永く咲き続けることはできない。これは、初夢の世界の話なのだろうか・・・
                          

      参考:運命の足音(著:五木博之)
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