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■ 人事部門の最優先テーマは、人事考課の整備と管理者の人材育成

       
2005年6月3日  

 某企業の役員が「最近は経済誌も新聞も成果主義云々をあまり取り上げなくなりましたね」と言う。その通り。成果主義が当たり前のように企業社会に入りこんだ証拠であろう。各機関が行う成果主義に関する調査を見ても、導入か否かなどはメインテーマではなくなり、導入後の課題に焦点は移っている。そこで取り沙汰される割合の最も多いのは、何と言っても“評価”である。
 人事考課の整備あるいは充実というと、人事関係の方はまたか、とイヤな顔をされるかもしれない。真面目に取組んでいる企業ほど、短いサイクルで人事考課に手を入れているからだ。
 人事考課の整備とは、基準の見直しや評価段階を変えるというような全体の中の一部のことを言っているのではない。例えば、ここ数年で企業の組織は変化しなかったか、アウトソーイングを導入していないか、非正社員は増えたか、それらは今後、増やしていくのか、一過性のものか。企業の担当者と組織について話しをすると、かなり組織や人の配置に関して変わっていることが多く、要は「選択と集中」が企業体に合わせて相当進展しつつあることだ。それをふまえて、人事考課を考えてみるべきであり、語句や表現の手直しや新しく生まれた仕事、消滅した仕事の削除といったことを、ここで言っているのではない。
 現在と将来に向けて、組織の括りを評価も考慮に入れて、このままでよいのかの検討が必要であることを訴えているのである。最近行った企業への人事考課の改訂を例にとると、総合職・一般職というコース別人事管理制度を職掌別のそれに変えた企業は多い。当然人事考課も職掌別職種別となる。コース別ということでは同じだが、設計は全く異なり、職種概念が強く働くことになる。なぜ職掌別にしたか。担当職務に基づいた個別管理を徹底させ、期待する成果を明示できる制度にしたいということ。担当職務の明確化は、成果主義の基本を成すべきものであり、自己の成果、目標との納得性、公平性に繋がるものであること。
 「人事制度」といえば、出てくる頻度の多さ、関心度の高さにおいて、他を圧するのが人事考課であるが、企業が導入している実際の人事考課をみると、曖昧さ、不明確さが多々見られる。人事の担当者と話しをすると、その原因はよくわかる。“基準の明確さというけれど、何を基準とするのか。また明確さとはどう表せばよいのか、実のところよくわからないのです”。その結果であろうか、どこからか見つけてきたような袖丈もウエスト回りも合っていない他社の例や、専門家なる方に提示された人事考課をそのまま使っている。“自社のもの”というこだわりは、どうすれば表現できるのか、たしかに難しい問題ではあるが、手順を踏んで一歩一歩着実に職務を拾い上げることである。手抜きは行けない。仕事を掴むことである。それには各職場の実態分析から入っていけばよい。
 
 管理職の人材育成に関しては、こと改めての感もあるが、一言でいうならば、成果主義実現の道も、業績向上の道も、高いチームワークを保ち動機づけられた社員から成る職場づくりも、すべて管理職がレールを敷き牽引していかなければ到達できないということである。部下に仕事を与えるのは管理者である。部下を評価するのも管理者である。管理者が、時代の要請に適合した管理者としての能力を身につけていることを要求されるのは組織の要だからである。ここでいう能力とは、リーダーシップであり、問題解決力であり、目標必達へのあくなき挑戦意欲であり、さらに人間的な抱活力をもさす。企業は自社の管理者像をいち早く描き出し、その養成に努めることは、評価の問題に劣らず重要といえる(現在管理者の育成をも盛り込んだ考課者訓練が盛んであるのはその結果かもしれない。詳細については当HPの「MCOの考課者訓練―管理者の人材育成―」を参考に)。もっというならば、人事考課制度が多少不備、不満を持たれていても、管理者の力量で補えることは多々ある。整備は短時間では達っせられない。管理者の人材(評価能力の向上も含めて)を研修で育成しながら、制度整備を推し進めていくという戦略は有効ではないか。

 おもしろデータ。5年に一度年を取る国、インドネシア。
 我々の中にはよく“40歳(あるいは45歳、50歳の人もいるが)を越してから年をとらないことにしている”人を見受ける。誕生日ごとに一歳マイナス計算する人さえもいるが…。しかし、インドネシアの人口ピラミッドをみると、“う〜ん、負けた!”。日本の人口ピラミッドはひょうたん型と呼ばれなにはともあれ、滑らかであるが、インドネシアでは5歳おきに不自然なトゲが飛び出している。30歳、35歳、40歳、45歳……と、5歳おきに人口が突出しているのだ。
 なぜか。国勢調査に携わった日本人は言う。「おおらかな国柄で、多くの人が自分の年齢を正確に知らない。それで、調査のときにはキリのよい数字を記入してしまう」らしい。「私は30歳」と話していた現地の運転手が、1年後にもう一度年を聞いたところ、やはり「私は30歳」と答えたという。このような現象は、インド、スリランカでも見られるようだが、単に“おおらか”だけではすまない事もあるという。年齢が不正確では国勢調査の目的を達成することができない。学校建設など様々な計画を狂わすことになるようだ。我々日本人には信じられない話しであるが、年齢が大雑把であるということは、戸籍も然りということか。
 同じアジアでもベトナムは事情が少々違う。中国文明の影響を受けているおかげ(?)で、ベトナムでは年齢の不正確は少ないという。当人が認識している年齢が曖昧でも、生まれた年の干支(えと)を知っている場合が多いので、正確な年齢がわかるという。そう、この日本国もかつては、生まれを干支で言い表していた。今では年賀状に猿や酉を印刷するときに思い起こすのみという人が多くなっているが。ベトナムではこの干支が年齢確認の最たる武器となるようだ、まさか60歳の誤差はいかなる人物にもあるまい。

 迷い多き日本語の使い方、一つ解決。
 半世紀以上日本語を使っていて(日本語しか使えなくて)、未だに使い方に迷っている言葉というものがある。その一つが“ご苦労様でした、お疲れ様でした”。
 仕事が終わった時や、外出から戻った上司や先輩に対して、「ご苦労様でした」と挨拶をする同僚などに違和感を覚えていた。同僚や部下ならいいが…と。使うなら「お疲れ様でした」じゃないのか、たしか「ご苦労様でした」は、目下の者に使う言葉と習ったような。ずっと、迷って使い方があやふやで過ごしていたのだが、一挙に解決した。先月末頃の朝日新聞“ことば談話室”にまずは謝意を表す。
 この二つはどちらも「ねぎらい」の言葉であり、「ねぎらう」とは、同等以下の人の苦労・尽力などを慰め、感謝する意。“ご苦労様”は目下の者に、“お疲れ様”は同輩以下に用いると国語辞書には載っており、この言に従えば上司・先輩には使えないことになる。しかし、ビジネス系に限っていえば、“ご苦労様は失礼だが、お疲れ様なら問題はない”としているようで、ある調査結果を見ても、「お疲れ様でした」は9割近くの人が上司も部下も“気にならない”と答えている。
 「身分制の時代でもないので、毎日顔を合わせる上司など人間関係が親密なら、どちらも目上の人に使ってもいいのでは」と語るのは、文化庁国語課の方。そう言われれば民主主義の社会にある現在においては、しかとありなんとうなずける。ましてや、成果主義の時代、今日の部下は明日の上司かも知れず、言葉の使い方云々に拘っている時ではないのだろう。正しい日本語の使い方も、時代と共に確かに変わっていく。(とはいっても、“ご苦労様でした”を上の人、特に尊敬すべき上司に言えるか。未だ発せずにいる)

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